誤解される依存症

スマホ依存症について、お話しする前に、まず『依存症』とは何なのでしょうか?
我が子に聞いてみると「何かに依存しておかしくなってしまう・・・」そんなあやふやな答えが返ってきました。確かに何かに依存してしまって、生活が徐々に変わっていくことから、答えとして間違っていないかも知れませんが、なぜ、依存するような行動が起きてしまうのか?そのプロセスを知らなければ、依存症という言葉の上っ面しか、わかっていないことになります。依存症とは何なのか?なぜ依存するのか?依存症が起こる背景について、見て頂きたいと思います。

依存症とは「頼った相手」にとらわれる病気

ある晩、彼はとても疲れて帰ってきた。仕事で問題が起こった。ちょっとしたトラブルなのだが、小さいうちに手を打っておかねばトラブルはなだれのように押し寄せてくる。いま手を打つためには、明日さっそく何カ所かに連絡して用事を済まさなければならない。かなり面倒な用事だ。だが、解決が1日遅れれば、それだけ問題は大きくなる。その手順を考えていたら気が重くなった。
忙しいときに余計なことはやりたくない。トラブルの「犯人さがし」が始まったら収拾がつかなくなる。だから自分が矢面に立って事態を収めなければいけないのだが、簡単に方がつくとは思えない。
こんなことを考えていると目が冴えて眠れなくなった。彼はこういうときのためにウィスキーをポケット瓶を買ってある。ポケット瓶のキャップにウィスキーを入れるとだいたい4ccぐらい入る。それをキュっとあおると、じきに体が熱くなって眠くなる。だが、この日はそれだけでは眠れそうもなかった・・・。

これはアルコール依存症を徐々に患っていく人のエピソードです。誰でも面倒な問題を抱えることはあります。問題が起こるのは仕事や学校ばかりとは限りません。友人とのつきあい、家族との関係、隣近所とのやりとり・・・身のまわりは面倒なことばかり。これまでは何とか破綻せずにやってきたのだが、実際は傷だらけ・・・。人にはそんなことが往々にしてあります。

そんなときには、何か自分を守る手立てが必要になります。本当はスポーツをしたり畑仕事をしたりするのがいいのでしょう。音楽を聴いたり映画や芝居に行ったりするのもいいのかも知れない。しかし、「傷」が大きくなってくると、近所をジョギングしていても、抱えている問題が頭から離れません。退屈な映画を観ているとイライラしてきます。思い切って数日休みをとっても、休みの終わりが近づいてくると気が滅入ってくる・・・。

自分を守るための手段

世間で「心の病気」と言われるもの、例えば引きこもったり、うつ状態になったりするのは、自分を守るための手段なのです。ここのところが理解されず、「病気であることそのものが問題だ」「一刻も早くもとの元気を取り戻せ」と言われると、本人は逃げ場がなくなってしまいます。引きこもりになった子どもに対して、無理やり外へ連れ出そうとしたり、厳しい罰を与えたり、そんなことを決してしてはいけません。問題は今、病気であることではなく、その前に何があったか、それが重要なんですが、そのことはなかなかわかってもらえません。

自分を守るために「何かに頼る」という解決法があります。眠れない夜に備えて、ウィスキーのポケット瓶を持っている彼も、ふだんはストレートでウィスキーを飲むことはないので、これは「頼る」ための非常手段です。
けれど、何にどんなふうに頼るかが問題です。一杯では眠れず、二杯、三杯とあおり続けると、結局は翌日までアルコールが残り、仕事の連絡などどうでもよくなってしまうかも知れない。そうなると問題はさらに大きくなり、大きくなった問題のことを考えると、ますます憂鬱になってアルコールの量が増えるでしょう。

この進行はどこかで食い止めないといけない。そうでないとやがて「酒を飲んで、酔う」ことの意味がだんだん大きくなり、しまいには人生の中心になっていってしまう。そうなったら彼は常に「酔いたい、現実を忘れたい」という願望を抱え、酒に「とらわれて」生きるようになってしまうかも知れません。頼りがいのある「友人」だったはずのウィスキーが、いつのまにか「ご主人様」になっているのです。

誰にでも発症しうる依存症

ごくおおざっぱにいうと、これが「依存症」と呼ばれる病気の姿です。「頼る相手」「依存する対象」がある点がほかの心の病気と違います。依存症は身近な病気ですが、あまり知られていません。誤解されることも多いです。

しばらく前までは、依存する対象というと、もっぱら化学物質でした。化学物質というと、アルコール、たばこのほか、危ない薬物や、医師に処方される睡眠薬や抗不安剤など。つまり「クスリ系」のものばかりでした。しかし、今は、パチンコや競馬のようなギャンブル、どんどん買い込んでしまうショッピング、インターネット、ゲーム、スマホなど、化学物質ではないものへの依存が見られるようになってきました。さらに、DVやストーカー行為、痴漢などがやめらない人は、ある種の人間関係による依存症なのではないかと、考えられるようになりました。

ただ、依存症の対策を考えるとしても、どのぐらい依存物と接していたら、依存症と呼んでいいのか、その判断が難しいのです。逆に自分が依存症なのではないかと思った場合でも、病気であると思ってもらえないことが多い。ここに依存症克服の難しさがあります。

アルコールやパチンコなどは身近な嗜好品や娯楽で、問題なく楽しめている人も多いでしょう。だから病気との境目が見えにくい。どうかすると「そんなものをやめられないのはその人が弱いだけだろう」という話で終わりになってしまいます。その反対に、頼る相手が使ってはいけないクスリだったりすると、これは最初から犯罪になってしまう。そんなものに手を出す人は厳しく罰すればよいのだ、社会から追放してしまえ、という声が聞こえてきます。どっちみち「病気だ」と認識してくれる人は少ないのです。

もっとも多い誤解は、「普通の人はそんなことにはならない」というものです。つまり、普通に育って普通に生きていれば、嗜好品の摂取や娯楽をエスカレートさせて病気にまでなることはないし、反社会的な行為に手を染めることもない。依存症というのは、育ちが悪いか、意志が弱いか、性格がゆがんでいるか、とにかく特別な人だけに起こる問題だろう。こういう声はよく聞きます。しかし、決してそんなことはありません。依存症とは誰にでも発症しうる病気なのです。もしかしたら、自覚がないだけで、あなた自身も何かしらの「依存症」にとらわれている可能性があるかも知れません・・・。

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